ブルックナー ミサ曲第3番 朝比奈隆 大阪フィル 1980年 (プライベート盤)

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この演奏は、1980年の大阪フェスティヴァルホールにおける定期演奏会です。

プライヴェート盤が作られました。
大フィル合唱団が出演する演奏会は、ライブ盤を作成し、出演料がわりに配布していたのですが、この時は、日本ブルックナー協会もからんでいたと思います。

私は、この時点で、すでに団員ではなく、演奏には参加していませんが、東京からかけつけて、聴きにいきました。

大阪フィル合唱団が1曲の練習に半年というのが通例だったのに、朝比奈の御大がわざわざ1年かけて練習した、熱意の産物です。

この演奏を聴いて、私は、涙がと止まりませんでした。

おわってからの打ち上げで、バスがベネディクトゥスの旋律はわれわれしかないんだ、と自慢気に語っていたのを思い出します。

その後、カテドラルでもっとすっきりした演奏がなされ、それはLP、CDで公式に発売されましたが、こちらは、このプライヴェート盤しかありません。

公式録音ではないので、音の品位はすこし落ちますが、きれいな録音です。

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この演奏の原因になった飲み会のもようを再録しますね。

あれはいつのことだったか、大阪フィル合唱団での練習がおわったあと、パートで飲み会があった。ちょうど、その日は朝比奈のオッサンの総練習の日だったのだが、だれかが、声をかけたらしい、朝比奈御大がこの飲み会に参加したのである。この席で、ある団員が立ってしゃべりはじめた。だれだったか、おぼえていない。「我々は、朝比奈先生の下で、もう何年も歌ってきた。もう朝比奈先生の体臭を表現できるようになったと自負している。しかし、本当に残念なことだが、朝比奈先生の十八番である、ブルックナーをまだ一度もうたったことがない。ぜひともブルックナーをやりたい。それもテ・デウムなんかけち臭いこといわないで、ミサ曲第3番をやりたい。」と切り出したのである。皆、なにを言い出すのかとおもったのだが、考えることは実はみんないっしょで、すっかり盛り上がってしまった。しかし、一番心を動かされたのは、朝比奈御大だったのである。それから間もなく、ミサ曲第3番の演奏会をすることが決まった。朝比奈さんの気合の入り方は半端でなく、通常半年の練習なのに、これは1年かける。それも合宿もする、ということなのである。それで、実現した演奏会が1980年7月14日大阪フェスティヴァルホールでのコンサート。それはそれは感動的な演奏会だったのである。

この合宿、最初は朝比奈の息子がリハーサルをやったらしい。これで、すくなくとも練習の一貫性が途切れてしまったらしいのである。もしこれさえなければとの話もあった。

この演奏会、東京からかけつけた。前の方の席だった。しかし、そこから聞こえてくる声は、今までの大フィル合唱団から決してきけなかった、本当に純度の高いもので、本当に美しい演奏だった。鳥肌はたつし、涙は流れるし、実に感動的な演奏会だった。終わってから、打ち上げに参加したが、あの一番美しいベネディクトゥスの主旋律はバスだけしかない、とバスパートの人が誇らしげに言っていたのを思い出す。

このときの演奏は、大フィル合唱団がレコードにしている。これは本当に貴重な財産だ。その後カテドラルでの演奏は、東京のコーラスで、もっともっとすっきりした演奏である。

朝比奈さんの思い出

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ドヴォルザーク スターバートマーテル 朝比奈隆 大阪フィル 1974年 

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大阪フィル合唱団のデビューコンサートである。このLPには、ベートーヴェンの第9の第4楽章がフィルアップされている。この演奏は、大フィル合唱団としての最初の第九のライブである。ドヴォルザークの演奏のときは、最初に未完成が演奏された。

私が、大フィル合唱団に入ったのが、この団体の創立のときで、1974年4月である。ちょうど、大学に入学したときである。この前の年に、第九合唱団として公募をしていたが、私は浪人中だったので、自重していた。大学に晴れて合格したので、入団したのだ。当時、オーディションはなく、誰でも入れたので、500人もいた。その後、ふるい落としのオーディションがあったが、私は幸い一軍だった。

大フィル合唱団は、朝比奈ファンのかたまりである。朝比奈さんの指揮で歌えることを至上の喜びとする人たちばかりである。最初に取り上げた曲は、この曲だったが、私は、はじめて聴く曲だった。

この演奏、まだ声にまとまりがない。当時の練習は、朝比奈のオッサンの長男がやっていたが、この人声楽の専門家でもないので、いろいろ大変だった。そのことは、後年、本人の告白がある。中丸さんの本、オーケストラ、それは我なり-朝比奈隆 四つの試練にその記述がある。

何にしろ、これで、大フィルのコーラスが始まったのである。朝比奈さんは、コーラスつきの大曲をやりたがっていたが、いつも合唱団の頼むのが大変だったらしい。それで、自前で持つことになった。この団体は、寄せ集めで核がなかったので、アサヒコーラスを吸収して、その核としたのである。このアサヒコーラスの出身者は、本当に熱心で、今でも現役でがんばっている人がけっこういる。大フィルだけでも35年間である。一番の親分格の方は、朝比奈さんよりも早くに亡くなってしまった。この方が入院したとき、朝比奈のオッサンは、見舞いに行っている。すごく親しい古くからの同士なのだ。

この合唱団に入った意義は大きく、私は、朝比奈のオッサンと個人的なつながりをもつことができたのである。まだ、そんなに全国的に有名になる前だったし、私はオッサンの大学の後輩だったので、かなりいろんな接触を持つことが出来たのである。オッサンをけしかけて、コンサートで取り上げてもらった曲もある。マーラーの6番だ。パーティのとき、散々けしかけた。オッサンに絶対合っているから、やってよ。それが直接のきっかけかどうかわからないが、影響はしていると信じている。

大フィル合唱団の実力が飛躍的に向上するのは、朝比奈さんの長男が去って、秋山和慶指揮でカルミナブラーナをやったときである。そのときの練習は何と手塚幸紀氏。この年は、手塚氏がベートーヴェンの第九もやったのだが、このときの成果もたいへんなもので、その年の朝比奈さんのビクターのレコーディングの演奏は、この手塚氏の練習による貢献度が大きい。

このレコードは、大フィル合唱団の出演料かわりに、制作されたものである。基本的には出演者に配ったのであるが、演奏会などでも売られていた。音質は、そんなによくはない。

意図的に音を落としているかどうかわからないけれど、ブルックナーの0番の日本初演のとき、シューベルトのミサ曲第5番をやった。このシューベルトも自主制作盤があるが、同じ日の公式録音のブルックナーがものすごくいい音なのに、シューベルトは貧しい。同じ機械を使っているんではないのだろうか。テープの回すスピードから違うのかもしれないが。

ちなみに、この第4面の第九であるが、大フィル合唱団として、最初の第九の演奏である。私はこの演奏ではじめて第九を歌ったのであるが、ものすごく感動した。とくに、最後のアッチェルランドは、まるでフルトヴェングラーのような演奏だったが、もう鳥肌がたった。そして、大歓声。これは一生の記念になる演奏会だった。演奏の質は、その後のビクターのレコードになったものの方がはるかにいいのだが。

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