もう朝比奈のオッサンが亡くなって10年近くたつ。早いものである。
最晩年は大スターだったので、コンサートのチケットもとりにくくなってしまったが、もともとは大阪
のローカルな指揮者だった。
福岡で中学の前半を過ごし、そのときに、はじめて本格的なオーケストラを聴いた。それは、ヨゼフ・カイルベルト指揮バンベルグ交響楽団。これは本当にすばらしい体験だった。そして、大阪に戻ると、大勢音楽好きがいる。その友の家で、いろいろレコードをきかせてもらっているうちに、大阪の大指揮者朝比奈さんのことが話題になる。しかし、当時まだ生を聴いたことがなかった。
はじめて生を聴いたのは、大フィルの第100回記念定期演奏会。マーラーの1000人である。これは、本当にステージに1000人のったのだ。ステージにあがるのに1時間かかったのだ。
この演奏のあとしばらく聴く機会がなかったが、次に豊中市民会館で、ベートーヴェンの第9を聴いた。このとき、私は浪人生。高校の後輩がたくさんステージにのったのだ。当時、わが高校では、音楽選択者の発表会があり、この第9を歌ったのである。
この演奏のあった年、大阪フィルは第9専用の合唱団を組織した。私は受験中だったので自重していた。
この合唱団は成功したらしく、翌年、大阪フィルの専属合唱団として生まれ変わることになる。私は、ちょうど大学に合格したこともあって、この大阪フィルハーモニー合唱団に入団したのである。当時は無試験で500人もいた。のちに団内オーディションがあって、一軍、二軍に分けられたが・・・。
この合唱団では、演奏会前の総練習をはじめ、朝比奈御大と接することがかなりあったのである。私は、ちょうど大学の後輩(学部もいっしょ)だったこともあって、いろいろお話することも多かった。
この合唱団には、大学生のときにずっと在籍していたのだが、就職して東京勤務になったので、退団することになった。就職がきまったときに、朝比奈御大にご挨拶にいったが、さすがに関西の銀行の経営者はよく知っていて、私の勤務先の元会長の名前が出ていた。
東京に移ってからは、コンサートによく通った。最初のうちは、楽屋におしかけては、いろいろ話に行ったのだが、まもなくオッサンは大スターになってしまい、なかなかそういう機会をもたなくなってしまった。しかし、なくなるまで、実にたくさんのコンサートに通った。いまは、ああいうスタイルの演奏ないだけにさびしい限りである。
+++++
あれはいつのことだったか、大阪フィル合唱団での練習がおわったあと、パートで飲み会があった。ちょうど、その日は朝比奈のオッサンの総練習の日だったのだが、だれかが、声をかけたらしい、朝比奈御大がこの飲み会に参加したのである。この席で、ある団員が立ってしゃべりはじめた。だれだったか、おぼえていない。「我々は、朝比奈先生の下で、もう何年も歌ってきた。もう朝比奈先生の体臭を表現できるようになったと自負している。しかし、本当に残念なことだが、朝比奈先生の十八番である、ブルックナーをまだ一度もうたったことがない。ぜひともブルックナーをやりたい。それもテ・デウムなんかけち臭いこといわないで、ミサ曲第3番をやりたい。」と切り出したのである。皆、なにを言い出すのかとおもったのだが、考えることは実はみんないっしょで、すっかり盛り上がってしまった。しかし、一番心を動かされたのは、朝比奈御大だったのである。それから間もなく、ミサ曲第3番の演奏会をすることが決まった。朝比奈さんの気合の入り方は半端でなく、通常半年の練習なのに、これは1年かける。それも合宿もする、ということなのである。それで、実現した演奏会が1980年7月14日大阪フェスティヴァルホールでのコンサート。それはそれは感動的な演奏会だったのである。
この合宿、最初は朝比奈の息子がリハーサルをやったらしい。これで、すくなくとも練習の一貫性が途切れてしまったらしいのである。もしこれさえなければとの話もあった。
この演奏会、東京からかけつけた。前の方の席だった。しかし、そこから聞こえてくる声は、今までの大フィル合唱団から決してきけなかった、本当に純度の高いもので、本当に美しい演奏だった。鳥肌はたつし、涙は流れるし、実に感動的な演奏会だった。終わってから、打ち上げに参加したが、あの一番美しいベネディクトゥスの主旋律はバスだけしかない、とバスパートの人が誇らしげに言っていたのを思い出す。
このときの演奏は、大フィル合唱団がレコードにしている。これは本当に貴重な財産だ。その後カテドラルでの演奏は、東京のコーラスで、もっともっとすっきりした演奏である。