朝比奈さんは、過去の人になりつつあるのかなあ・・・

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いま、ベートーヴェンの交響曲のCDのデータ整理をしているのですが、昔は、簡単にネットでデータがそろったのですが、いま、けっこう苦労しています。

ツィクルスは、9回ありましたが、

録音は、

学研

ビクターが2回

キャニオンが2回、

新日本フィル

EXTON、

と7種の全集があります。映像もいっしょにとっているのもあります。

ビクターの全集については、運命が別のソースになっているものがあります。

まとまったデータがなかなかなくて、また廃盤になっているのもあって、ちょっと時間がかかかっています。

最近、新譜もいくつかあるので、完全に忘れられた存在になっているわけではないですが、やはり活動していたときとくらべて、データがすくなくなっています。

先日、ある若い音楽家と話したときに、朝比奈さんの最晩年の話になりました。

で、いまの常任である、大植さんとの比較になりますね。

朝比奈さんの最晩年は、もうヨボヨボで指揮の体をなしていなかったとか、どうしようもなかったといった話が、けっこう若い人たちには語られていました。だから、当然、いまの方が大フィルの実力は上だ、ということになるわけですね。

しかし、古い世代では、朝比奈さんの時代とくらべ、圧倒的な音量がない、とよくこばしています。どうも大植さんの音楽はおもしろくない。

それは、朝比奈さんへのノスタルジーで言っていることもありますが、やはり生を聴いての決定的な満足感ということでは、どうしても朝比奈さんの方がよかったという声にもなるわけです。

指揮者というのは、テクニっクだけではないので、その存在感というか、そういうものだけでも音楽はできるわけです。

とくに、音楽を学んでいる人にとっては、技術的な水準というのが非常に大事なので、あまり下手だと、音楽そのものより、そういう技術的な難点がむしろ大きな問題として言われる傾向はあると思いますね。

しかし、音楽の価値をいうとき、そういう面はかなり後退すると思います。

どうしても朝比奈さんの演奏の価値というのざは、客席で味わうあの幸福感であり、あの体験がないと、そのよさを語るのは難しいかもしれません。

そういう体験がなくなってしまった今、すこしずつ過去の話になっていく寂しさを感じざるをえません。

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